天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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――上田元理事長はある意味、財団の「中興の祖」と2012年に行われた第10回天田財団助成研究成果発表会であいさつをされる上田理事長(当時)「定款3条、4条」の目的、事業を堅持する2011年まで、20年以上にわたり低迷した「失われた20年」の半ばでした。デフレ経済で景気も思わしくなく、助成資金の原資となるアマダの株式配当も、かなり厳しくなっていた時期だったと思います。財政面からも財団運営は大変だったのではありませんか。上田―元をたどれば私がアマダの社長在任当時の10年は「失われた20年」の、その真っただ中で経営環境が大変厳しく、無配にはなりませんでしたが、1株あたりの配当金が3円といった時期もあり、財団運営にはずいぶんご苦労をかけたと思います。私が財団に移ったあとは、景気回復に伴いアマダの業績も回復、配当金も増えていったので、その後の財団運営は楽になっていきました。他の財団から見ると羨ましい経営状態だったと思います。あとは、公益法人の性格上、受けている税制優遇に対応し、公益をしっかり守り、使いすぎずためすぎず運営していくことが求められます。 そんな中で公益法人といっても、財団運営には収入の不安定さもあることも予期し、5年ぐらいは独立して運営できる経営体質と体制を整備しました。でも言えるわけですね(笑)。2007年の、財団設立20周年から助成事業をレーザプロセッシングに拡大されるとともに、2011年には所管する官庁が経済産業省から内閣府に変わりました。これにはどんな経緯があったのですか。上田―レーザプロセッシングはそれまでも広義の塑性加工という考えのもと、研究助成の実績は何例もあります。しかし、レーザ加工は大変広範囲で多くの分野がありますが、その中でも主に金属のレーザ加工に関する分野をレーザプロセッシングと定義し、本格的に助成分野として塑性加工から独立したのが2007年です。そのときから、レーザプロセッシング分野の先生方に「選考委員」として財団活動に参加していただき、財団の助成分野も塑性加工、レーザプロセッシングの2枚看板としました。 また、2008年には公益法人関連3法が施行され、旧民法34条の規定により設立された旧来の財団から、この新法により、一般法人になるか、公益法人になるかの選択を迫られ、結果公益財団法人への道を選択・申請し、2011年に設立認定され、新たに公益財団法人として再スタートしました。これを機に名称も改め、「公益財団法人天田財団」といたしました。この法律によって認定あるいは認可された法人は自動的に内閣府の所管となりました。 さらに定款第3条の(目的)は「この法人は、金属等の塑性を利用した加工及び高密度エネルギー下での45

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