天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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とく、勇の熱意を糧に動く準備委員たちは、日本塑性加工学会をはじめとする各界の重鎮たちを財団設立のメンバーに迎え入れることに成功する。彼らの呼び掛けにより、いずれ劣らぬ優秀な礎石たる精鋭たちが集まり、盤石の体制をつくるための背景を整えていく。こうした熱意や努力が実を結び、「天田金属加工機械技術振興財団」として無事、財団認可がおりる運びとなった。それは天田財団が産声をあげ大海に漕ぎ出さんとする瞬間であった。※1天田勇は、「創造」について著書「無借金経営の勝利」の中で次のように述べている。「一見、なんでもないように見えることの地道な積み重ねの中からいつのまにか生まれ、それが実際に動き出したときには、もう、これが『創造』なのかどうか、誰もあらためて考えないようなもの、『創造』とはむしろそういうものではないか。」※2 一般には、本会が設立総会と称されることがある。展にかける強い想いが込められていた。また、財団の設立は、研究と産業の連携により新しい機械技術を創造するという勇の夢の実現のための大きな一歩でもあった。財団設立時の基本財産には、設立者 天田勇の私有財産である現金 1,000万円と株式会社アマダの株式600万株(額面金額 3億円)の寄附、および(株)アマダからの1億円の出捐による計4億1,000万円、運用財産にはアマダグループ各社からの出捐による6,000万円がそれぞれ充てられた。 同年6月5日、東京高輪プリンスホテル(当時)において、第1回理事会・評議員会※2が開催された。財団設立に尽力した関係の方々、および塑性加工や金属加工機械の技術の進展に貢献する志を持った方々が集まり、今後の財団の運営方針を確認し合うとともに、運営実務に必要な事柄について審議が行われた。会合は、織田重稔専務理事の開会の辞に始まり、続いて天田勇理事長があいさつをされた。次に長谷見稔夫理事より、これまでの財団設立に関する経過報告が行われた後、選考委員の選任、および選考委員会の規約などの具体的な審議が行われた。会合の後に行われた懇親会では、出席されたご来賓、および理事、評議員の方々と次々言葉を交わす天田勇理事長の姿に、財団にかける強い意気込みが感じられた。天田勇理事長は、この後も財団の理事会や重要な会合には可能な限り、自ら進んで出席され、研究者をはじめとする会合に出席された方々と議事以外のことについても言葉を交わし、意見を聞くことに努めた。財団の活動を盛んにするために尽力するその姿は、多くの人々に強い印象を残すこととなった。そして9月16日には試験研究法人の認可を受けることができ、財団法人としての基礎が完成した。こうした経緯を経て、それまで存在しなかった塑性加工分野に重点を置き、金属加工機械の研究・開発を助成する財団法人が確立されたのである。財団の基本設計1987(昭和62)年5月8日、「天田金属加工機械技術振興財団」設立総会が開催され、財団の設立が正式に決定された。 財団の事業としては、設立申請の法的文書「寄附行為」の中で次の3つが規定された。・金属等の塑性を利用した加工に必要な技術の調査・研究に対する助成・金属等の塑性を利用した加工に必要な技術に関する国際交流の促進及びその助成・前二号に係る成果の普及啓発財団の役員には、理事長の天田勇をはじめ、理事、監事、専務理事がそれぞれ選任された(表1参照)。設立総会開催後の5月13日、通商産業大臣に財団設立の申請が行われ、同月28日に設立許可を得て、財団法人 天田金属加工機械技術振興財団が正式に発足した。当時の財団名には、(株)アマダの前身である天田製作所の時代からコンターマシンや板金加工用機械、レーザマシンなど、一貫して金属加工機械の製作・開発に携わってきた天田勇の金属加工技術の発34概 説

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