天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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(1)財団創立財団設立申請天田財団は、1986(昭和61)年 12月25日に(株)アマダ(現(株)アマダホールディングス)の創業者 天田勇を設立代表者として主務官庁となる通商産業省(現 経済産業省。以下、同じ)に財団設立に関する趣旨説明を行い、実現へのスタートを切った。財団創立の根本には、日本の工作機械の性能や構造が世界の優れた工作機械と比しても引けを取らず、さらに発想においては一歩先に出ることができるようになるため、広く大学、公設試験研究機関が行う研究に、自らの財産を活用したいとの天田勇の構想があった。その根源には天田勇が重んじていた「創造※1」の精神と姿勢に関して、本物の「創造」は簡単には生まれないこと、また自らの信念である実用性が高く、かつ人が必要とするものの開発には基礎的な研究の積み重ねと世界中で行われている多様な研究成果の絶え間ない取り込みが必要であることを自身が理解しており、その実現を目指していたことがあった。勇は家庭の事情により小学校卒業後、鉄工所に奉公へ出され、昼間は働きながら夜間学校で学び、早稲田高等工学校まで進んだ経歴を持つ。勇自身は実践と学校教育の両立により優秀な技術者として独り立ちしたという自負があったが、自分が修められなかった大学、および研究機関に対して、これからの時代に必要な機械加工技術の進歩や発展、向上の一端を担うものとして大きな期待を持っていた。これらのことから、機械加工技術の向上には、今後さらに基礎となる技術研究の活発な展開が極めて重要である、との結論に達し、財団の設立が企図されたわけである。ただし、設立への道のりは、決して平坦ではなかった。主に関係省庁との折衝を担当した当時の(株)アマ2.財団のあゆみダの役員、後に財団専務理事に就任する長谷見稔夫はそう振り返る。勇の経歴を知る長谷見は、本人から財団設立、運営への熱意を聞かされ、大いに賛同したが、同時に設立への困難さも感じたという。翌1987(昭和62)年1月、設立を現実のものとするべく、財団の初代専務理事に就任することになる織田重稔を含む社内の少数精鋭の有志たちによる財団設立準備委員会が設立された。省庁を含む社外との交渉を主に長谷見が、また財団設立に必要な書類や資料などの準備/作成を主に織田がそれぞれ担当し、財団設立のために動き出すが次々と課題が立ち塞がる。というのも、当時、機械加工業界にはモデルとすべき財団法人がなかったため、どうしても手探りで動かざるを得ない事態が起きてしまう。かつ関係する通商産業省機械情報産業局(現 経済産業省製造産業局)の意向や方向性の見極めも難しく、状況を複雑化させる一因となっていた。特に1業種1財団という意向の中で、工作機械技術の分野では既に他の企業から財団設立の申請が行われていたことから、設立認可に関しては、工作機械分野を所轄する機械情報産業局産業機械課ではなく、塑性加工分野を所轄する同鋳鍛造品課(現 素形材産業室)経由で検討が行われることになった。こうした状況の中、勇の財団にかける熱意、善意に強く共感した準備委員会の一同は熱心に活動を続け、担当者は足しげく鋳鍛造品課に通い、説得行脚をし続けた。その真摯な姿は省庁の関係者をいつしか財団設立の協力者へと変えていった。関係省庁への折衝も一段落、息をつく間もなく財団設立後の役員、評議員、選考委員の人選という課題に直面する。しかし、天田勇の座右の銘である水五訓の『障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり』のご33

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