天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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図13 横須賀製鉄所(造船所)の建設責任者 フランス人ヴェルニー 横須賀市自然・人文博物館所蔵図14 横須賀製鉄所(造船所)の全景(明治時代初期撮影)横須賀市所蔵図15 0.5トン蒸気ハンマー(左)と3トン蒸気ハンマー(右) (それぞれの銘板にはROTTERDAM 1865と記されている)横須賀市自然・人文博物館 ヴェルニー記念館所蔵(造船所)を建設、日本初のドライドックを完成させた。その規模は技官・作業員含めて1,000名を超え、同年鋼製鍛造大砲や鉄砲用素材を鍛造する蒸気力ハンマー(6トン×1基、3トン×1基、0.5トン×4基 :蒸気力でハンマーを上昇させ自重落下で熱間鋼材を鍛造)などをオランダから導入した。当時ではベッセマー転炉と並んで最新重要発明がこの蒸気ハンマーであった(図15)。佐賀藩がまだ水力で大砲の筒を削っていたころ、小栗はここで蒸気動力を使って大砲の筒内を削らせていたのである。 造船所は船体の製造だけではなく、船にかかわるすべての部品を製造する本格的な近代工場であり、その後の日本のマザー工場の役割を果たした。例えば横須賀街のインフラ整備、西洋式灯台部品製造、鉱山機械、鉄製橋梁、富岡製糸工場の設計と蒸気動力適用、メートル法の普及などが挙げられる14)15)。 元治2年(1865年)、小栗は横須賀製鉄所に先立ちその分工場として横浜製鉄所(JR石川町駅近辺)を設け、製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などを担わせた。幕府瓦解後の明治12年(1879年)、新政府は長崎製鉄所で蒸気機関を学び、石川島平野造船所を創設した平野富二にこれを移管、平野は機械設備を東京の石川島(幕府が水戸藩に命じ江戸隅田川河口の石川島に造船所を創業、新政府が平野に払い下げる)に移設した。これが現在のIHIの源流になった。 小栗は幕府再建のためだけでなく、日本の将来を考え、膨大な費用と時間が必要な造船所建設を強い「思い」で推進した。幕府崩壊を目前にした小栗の心境を福地源一郎は"両親が病気で死のうとしているとき、もうだめだと思っても,看病のかぎりをつくすではないか。自分がやっているのはそれだ"と代弁している。大隈重信は"明治の近代化は、ほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない"とも語っている。 新政府は"小栗という実力者を生かしていたら新政権の安定はない"と恐れ、領地の上野権田村(群馬県高崎市)で隠遁生活をしていた小栗を捕縛し、慶応4年(1868年)、斬首の刑に処した。小栗はわずか42年の張りつめた生涯を故郷の権田村で閉じた。4. 戦後の大学と産業界の「思い」 明治維新に並ぶ動乱の時代が戦後の昭和20~30年代である。欧米に追い付こうとした富国強兵策がもろくも破綻し、日本はどん底を迎えた。この焼け跡から山内弘(早稲田大学)・福井伸二(東京大学)・益田森治(東京工業大学)・鈴木弘(東京大学生産技術研究所)、産業界(鉄鋼業界)から同憂の先覚者、池島俊雄(住友金属工業)・豊島清三(八幡製鐵)・井上勝郎(日本特殊鋼管、昭和43年八幡製鐵と合併)らが産学協同でモノづくり再興の「思い」から、昭和27年「第1回塑性加工研究会(世話人・鈴木弘)」を創設し116研究開発と助成の変遷

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