天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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図10 佐野常民 日本赤十字社提供 図11 三重津海軍所 公益財団法人鍋島報效会所蔵図12 ワシントン海軍工廠(造船所)での遣米使節団(左)と小栗忠順(右) (画像左側)The 1860 Japanese Mission to the United States. wikimedia Commonsより(画像右側)国立国会図書館Webサイト「近代日本人の肖像」より銑鉄が得られず失敗に終わった。高任はイノシシと渾名されるように、素早い行動力に加え切り替えが早かった。コンセプトを転換し、鉄鉱石の還元は高炉、銑鉄の溶解は反射炉と役割分担を明確にした。早速、故郷の盛岡藩(南部藩)に鉄鉱石を原料とした洋式高炉に挑戦、出銑に成功した。その銑鉄を水戸藩の大砲製造用反射炉や韮山反射炉に供給して大砲製造に貢献した。その後、釜石市橋野で高炉を建設、試行錯誤はあったがその成果が1880年の官営釜石製鐵所、1901年の官営八幡製鐵所に受け継がれた。 高任は富国強兵・殖産興業のために工学の大切さを明治政府に力説、1871年には工部省に工学寮(後の東京大学工学部)が設置されるに至った。その後、日本の有力大学に「工学部」が続々と設置された。日本の大学は12世紀に遡る欧州諸大学の科学志向とは一線を画しており、この工学重視が日本のモノづくりの発展に寄与したと言っても過言ではない。 さて、安政5年(1858年)、直正は精煉所のリーダーであった図10の佐野常民に三重津海軍所の設置を指揮させ、この地で図11に示す洋式海軍の教育施設・造船・艦船用蒸気機関等の製造を開始した。精煉方で培った鋳造・塑性加工・機械加工・接合などの金属加工の要素技術が海軍所で駆使されたであろう。ここでも失敗の連続で、ボイラーからの蒸気漏れに悪戦苦闘し、7年もの歳月を費やした後、慶応元年(1865年)日本で初めての蒸気船「凌風丸」を完成させた。この実績から、佐賀藩は幕府軍艦用蒸気機関の製造を請け負うことになった。江戸湾の台場に鉄製大砲を設置したように、幕府軍備の西洋化は直正がその一翼を担って牽引した。三重津海軍所跡地は2015年には「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された11)12)。なお、佐野は1870年、直正の推挙により新政府の兵部省に出仕し、築地に海軍操練所(現 築地市場)を設けた。その後、日本赤十字社の創立、新政府の大蔵卿など文理融合の大活躍をした。3. 幕閣 小栗上野介忠順の「思い」 小栗忠ただ順まさは1860年幕府の実質的な遣米使節のリーダーとしてポーハタン号で渡米した13)。図12に示すように使節らはワシントン海軍工廠を見学した。この造船所では、溶鉱炉、反射炉、鋳造および砲身を蒸気力でくり抜く錐鎮台、蒸気ハンマーによる熱間鍛造が稼働していた。小栗は日本との製鉄および金属加工技術の差に驚愕し、これを心に刻む意味で海軍工廠のネジを持ち帰ったとされている。 帰国後、小栗は勘定奉行(大蔵大臣)・海軍奉行(海軍大臣)に就任し、"造船所を持たねばならない。持つからには世界的なレベルのものを"との強い「思い」から、造船所建設の大英断を下した。その責任者に抜擢されたフランス人ヴェルニー(図13)は慶応元年(1865年)、相模国横須賀村の入江を埋め立てた。 その後、帰国するまでの10年半、激動の日本に あって造船業と横須賀のインフラ整備に専念し、図14に示すように小栗の構想に基づいた横須賀製鉄所115

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