天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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図6 田中久重 田中久重 ーwikimedia Commonsより図9 オランダの技術書『鉄煩鋳鑑図』 国立歴史民族博物館所蔵図8 韮山の反射炉(図右側)植松三十里『明治 なりわいの魁(さきがけ)』ウェッジ、2017た佐賀藩士 大隈重信・長州藩士 伊藤博文の強い「思い」によるのだろう。図6に示す田中久重は、明治になり70歳台で久留米から上京し銀座煉瓦街に電信機生産の田中工場を誕生させた。これが後の東芝の発祥となる。 直正は嘉永3年(1850年)、佐賀城近くの築地(現日新小学校敷地)に大砲鋳造の鋳立場を設置、また幕府の大砲鋳造用の多布施反射炉を設けた。図7は昭和の初めに描いた多布施の場景図である。反射炉は薩摩や静岡県伊豆の韮山反射炉(図8)が有名であるが、最初に実用化したのは佐賀藩である。佐賀には伊万里焼など焼物の技術と焼物師がおり、珪藻土を用いて耐火レンガにより反射炉を構築した。 反射炉の内部は天井がドーム型で、炭や石炭を燃やす焚口と鉄材を投入する鋳口とが少し離れ、燃料を燃やした熱がドーム天井に反射して鉄材を溶かす方式である。大砲の鋳込みでは外側の鋳型と中子の鋳型の間に反射炉からの溶鉄を流し込む際に気泡が入りやすい。そこを起点として試射中に砲身が炸裂する事故で、けが人が続出した。エンジニア藩士らは「もはや不可能、切腹して責任を取りたい」と願い出たが直正は言葉を尽くしてなだめ、続行を諭した。まさにエンジニアにとっては命がけのプロジェクトであった。 その後、図9に示す蘭学書「鉄煩鋳鑑図」のように中空から中実の大砲型を鋳立てた後に、砲身を水車動力でくり抜く錐鎮台を設置して、事故は激減し生産が軌道に乗った。佐賀の大砲は現時点で1つも発見されていないため、反射炉用素材の製法については不明な点も多い10)。 反射炉はこの他多くの有力藩が試行しており、その一例を紹介する。大島高任は長崎で砲術・鉱山学を学び安政2年(1855年)、水戸藩主 徳川斉昭に招かれ那珂湊に反射炉を設置した。翌年、砂鉄を原料として大砲製造にとり掛かった。しかし大砲に適した図7 幕府向け大砲製造用の多布施反射炉公益財団法人鍋島報效会所蔵114研究開発と助成の変遷

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