天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
113/216

図3 致遠館におけるフルベッキ(中央)と門下生たち(1868年12月撮影) フルベッキ群像写真 ーwikimedia Commonsより図4 鍋島徴古館所蔵の蒸気車雛形(実物)公益財団法人鍋島報效会所蔵図5 精煉方での蒸気車雛形試走場景公益財団法人鍋島報效会所蔵蒸気船を自力で開発する以外に道はない"との「思い」が直正の答えであった2)~9)。その第一歩として人財育成が挙げられる。若い佐賀藩士を積極的に江戸や長崎、さらには海外に留学させた。万延元年(1860年)の遣米使節派遣では7名、文久元~2年(1861~1862年)の遣欧使節にも3名を派遣させた。医学を通じて蘭学を学んでいた藩士も工学の蘭書翻訳に狩り出され、名医相良知安も医学以外の翻訳作業に従事させられ、一時スランプに陥ったほど直正の金属加工への「思い」は強かった。さらに、オランダで機械工学を学び、米国で機械産業の実務を経験した宣教師フルベッキを招へいし、ここで大隈重信・副島種臣・大木喬任らの佐賀藩士のほか、他藩の伊藤博文・大久保利通・加藤弘之・横井小楠・細川潤次郎ら、明治維新後に活躍した逸材を育成した。図3に致遠館におけるフルベッキと門下生たちの写真を示す。 直正は安政4年(1857年)、わが国最初の本格的洋式工場「長崎製鉄所(造船所)」の建設を幕府に進言した。維新後これを新政府は岩崎弥太郎に払い下げ、三菱重工業の礎となったことは周知の通りである。直正はまず艦船に必要な蒸気機関に焦点をあてた。嘉永5年(1852年)、精煉方(いわゆる理化学研究所)を藩内に発足させ、化学薬品・カメラ・電信機・ガラスなども研究し製造した。 ペリーの浦賀来航に遅れること約1カ月後、嘉永 6年(1853年)、プチャーチン率いるロシア船団が長崎に入港した機会に、直正は佐賀藩精煉方のエンジニアらにロシア艦内をつぶさに見学させる機会を与えた。彼らが士官室に入室した途端、目が釘付けになった。ロシア士官が蒸気車雛形に熱湯を入れ、模型アルコール器に火を点ずるとボイラーから沸騰音が鳴り響き煙筒から白煙が発生し、たちまち車輪が動き出し、円状のレール上を軽快に走り回るではないか! 佐賀藩にスカウトされた京都出身の蘭学・化学・機械の中村奇輔はこの模型に感嘆し、脳裏に深く刻みこみ早速佐賀に戻った。この蒸気車を奇輔が企画立案し、同じくキャリア採用組である丹後田辺藩出身の蘭学・理化学者の石黒寛次が構想と図面を担当、久留米藩出身の機械発明家・田中久重儀右衛門の父子がからくり機構を究明した。精煉方ではこの蒸気車雛形製造を通じて、板材・棒線材・管材などの金属素形材製造技術や、これを鍛造・曲げ・引抜き・せん断・接合などの塑性加工技術および歯車などを切削する機械加工技術を駆使して部品を製造したに違いない。図4に示すように蒸気車雛形は単純構造のため蒸気圧力が十分出なかったので、久重はギアなどで減速して回転力を引き出す独自の工夫も加えた。 試行錯誤を重ね2年後(1855年)、蒸気車雛形を完成させた。この実物は佐賀県の鍋島徴古館にあり、複製模型は佐賀県立本丸歴史館に展示してある。蒸気船の模型とともに藩主の前で公開した場景が、昭和の初めに描かれた図5の「精煉方絵図」である。1868年の明治維新からわずか5年の短期間で新橋〜横浜間に鉄道を実現させたのは、直正の影響を受け113

元のページ  ../index.html#113

このブックを見る