天田財団30年史「人を育て、知を拓き、未来を創る ~天田財団30年の軌跡~」
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図1 日本刀とその断面マクロ組織(画像右側)鈴木卓夫『たたら製鉄と日本刀の科学』雄山閣出版、19905㎜棟部(C:0.7%)微細パーライト組織中心部(C:0.2%)フェライトパーライト組織皮部(C:0.7%)微細パーライト組織刃部(C:0.7%)焼き戻しマルテンサイト組織図2 佐賀藩主 鍋島直正 公益財団法人鍋島報效会所蔵1. はじめに 焼け残った旋盤1台で天田製作所を立ち上げた創業者 天田勇は1946年"これからは君たち技術者の時代が必ず来る"と予見し、その「思い」を的中させた。その原点が縦型帯鋸盤(コンターマシン)である。当時のほとんどの工学系工作室には少なくとも1台の帯鋸盤が設置されており、著者らの世代は、マイクロメーターの三豊製作所とともに天田の社名が頭に刻まれている。同じように戦後、鉄鋼産業の西山弥太郎・日ひゅ向うが方ほう齊さい、自動車産業の豊田喜一郎・本田宗一郎らの指導者に恵まれ、独自の「思い」と責任感で国の保守的な施策を突き破って、日本のモノづくり産業を世界的地位まで築くことができた。ただ戦後7年の空白期があるとはいえ、航空機産業はこの「思い」を貫き通した人財に恵まれず、今日に至っているのは残念である。 なぜ、このように日本のモノづくりは世界で圧倒的優位を占めるに至ったのか? その答えの1つが幕末のエンジニアの金属加工の「思い」にあると著者は見ている。大陸から伝来した製鉄技術を日本の古代エンジニアは砂鉄利用による日本独自の「たたら」精錬法に進化させた。その結果、千年以上経っても朽ちない法隆寺の釘や、図1のマクロ組織に示す玉鋼の加工と熱処理技術により硬度の高い組織・靱性のある組織・柔軟な組織を組み合わせた類い稀な複合組織の日本刀へと昇華させて行った。このような金属加工の要素技術から機械工業や重工業に発展させ、日本を欧米諸国と肩を並べる国家にしたいとの「思い」で、ひたすらまい進してきたのが幕末のエンジニアであり、戦後のエンジニアではないだろうか。 ここでは、塑性加工の変遷を11分野に絞ってまとめてみた。その前段として以下の章では、単に「塑性加工」のみならず、溶解・鋳造・機械加工を含めた広義の「金属加工」の歴史1)を振り返るとともに、著者の「思い」も交え将来展望のヒントをご紹介してみたい。2. 藩主 鍋島直正の「思い」 まず幕末エンジニアの「思い」を代表するのが図2に示す佐賀藩主の鍋島直正である。アヘン戦争(1840~1842年)で東アジアに君臨した清(中国)が欧米の砲艦外交になすすべもなく侵略された事実は、日本国内を震撼させた。最も敏感に反応した1人が鍋島直正である。日本を欧米列強と肩を並べる強国にするには、古いにしえから醸成された基礎・基盤技術(製鉄、金属加工、からくり技術)をベースとした"鉄製大砲と歴史が語る金属加工への「思い」浅川 基男 早稲田大学名誉教授1.塑性加工112研究開発と助成の変遷

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